日本では古来より、八百万の神という言葉があるように森羅万象に魂が宿ると考えられています。
とても素敵な文化ですね!
こういった考えはアニミズムといって日本だけでなく世界中で見られるものです。
地球上の人々は自然を敬い共存して生きてきたので人間として当たり前の価値観という事ですね。
ですが便利になりすぎてしまったこの現代で常日頃からそのような事を意識して生きている人は一体どれくらいいるのでしょうか。
石は石、植物は植物、物は物って感じですもんね。
近くの裏山に生えている花粉を飛ばしまくる杉の木にも、自撮りを助けてくれるセルカ棒にも、養老サービスエリアの売店の五平餅にも命があるよ!と言われてもピンとこないのも無理はありません。
でも、小さい時にお気に入りのぬいぐるみとタオルケットと一緒だとよく眠れたり、天然石のパワーストーンのアクセサリーが壊れると何かの身代わりになってくれたような気がしたり、動けなくなるソファーを買ったら本当に動けなくなったり、こういう現象って少なからず物に命が宿っている結果だと思うんです。
もしこれらの物に命があったとしたら、ぬいぐるみやタオルケットはきっとかわいがってくれる持ち主のことが大好きでいつも寄り添ってくれるような気持ちでいただろうし、パワーストーンは自分が犠牲になっても持ち主を守ろうとしてくれただろうし、ソファーは「動けなくなる」というキャッチコピーに名前負けしないように必死に仕事をしたと思うんです。
そんな事を考えずにはいられない話が私にもあります。
私は原付バイクを一台所有しているのですが、おそらく購入して10年以上は経っています。
それに加えて、バイク屋さんで中古品として売られているのを購入しているので前の持ち主さんが何年使用したかわかりませんが購入した時点で経年が進んでいるんですよね。
それでも今まで故障ひとつせず、電球の取り替えやタイヤの空気入れくらいで大きな修理はした事も無く元気に動いてくれています。
バイクの寿命を縮める4選に書いてあったんですが、たまにしか乗らないというのはバイクを傷めて壊れやすくしてしまうそうなのですが、私のバイクは実家に置いていて地元に帰った時にだけ乗るんですが、かれこれ7年くらい地元を離れているので乗るたびに久しぶりなんです。
大体3ヶ月から半年ぶりな事が多いです。
毎回ちゃんと動いてくれるか心配で、特に真冬の寒い日なんかはエンジンがかかりにくくて祈るような気持ちでスイッチを押すんですが、何回かエンジンが消えてもうダメかなぁと思った頃にかかると、本当に今日もよく動いてくれました!大好き!という気持ちになります。
特にメンテナンスに出したりしていないのに毎回動いてくれてありがとうって思いが溢れすぎてもう直接バイクに伝えています。
いつもありがと−!とか今日は帰りにガソリン入れに行こな!とか普通に話しかけてます。
しばらく会えなくなる時は撫でてからお別れします。
多分はたから見たら変な人なんで誰もいないのを見計らってやってます。
でもこうやって話しかけているとバイクにも命があるような気がしてくるんです。
そして今も元気に動いてくれるのは持ち主である私と意思疎通が出来ているからなのかな、とふと考えたりするわけです。
次は友人の車の話です。
友人夫婦が車に乗っている時に、旦那さんが「もう車いらんなぁ」と言ったのです。
それを聞いた友人は直感的に今の会話車が聞いてたら嫌やな、と思ったらしいのですが、なんと5日後に旦那さんが一人で運転中に自損事故を起こし廃車になってしまったそうです。
事故の状況も普段通りに走っていてとても事故に遭うような感じではなかったらしいです。
まぁこういう話は抽象的すぎて偶然と思えば偶然かもしれませんが、私は完全にこれはもう車が聞いていたパターンやね、と思う派です。
いらんと言われて悲しくなって事故を起こしたんじゃないかなと思いました。
物って大事に使うと長持ちするし雑に扱うとすぐに壊れてしまいます。
全ては持ち主次第という事だと思います。
持ち主が物に対して命があると思えば丁寧に扱うようになるし、持ち主が物を物としてしか認識しなければ雑に扱っても何も思わないと思います。
これは所有物に対してだけに言える事では無いと思います。
動物や虫はもちろんのこと、花や草木、川、海、そういった自然にも命があると思えば人間の都合の自然破壊なんて出来ないんじゃないかと思います。
そうは言っても自然破壊の上に成り立っている便利さの恩恵はきっと受けているし夏になると蚊をやっつける為に蚊取り線香とか焚きまくるんですけどね。
なるべく色んな命を感じて調和しながら生きていきたいなと思います。
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